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日本の歴史〜日本の朝日
目次
【感謝のご挨拶】 【日本創世記】 【鬼門】 【大和朝廷】 【17条憲法の現代語訳】 【信仰の衝突】 【大都平城京の建設】 【天平時代の幕開け平安京】 【鎌倉の世】 【南北朝の時代】 【室町幕府武士の時代】 【戦国の世はじまる:男たちの求めた理想郷】 【まとめ】
「日本の歴史〜日本の朝日」
Japan's
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最初に、この著を読まれるあなたに感謝いたします。
アジアの極東に、日本という国があります。 日本人の先祖は人類学的に、モンゴロイド人と呼ばれています。日本は石器時代と呼ばれているその昔。 8万年から13万年も昔に黒龍江沿いに沿海州から間宮海峡の氷上を通じて樺太へ入り、更に北海道から本州へと大移動して来たといわれています。北海道、東北方面から人が入ってきたのを証明するかのように東北地方の岩手県花巻市では、3万年も昔といわれる石器時代の遺跡が発見されています。縄文文化が色濃く名残のも日本の北東北と呼ばれる地域です。現代、地球人が宇宙に出るために使用されているスペースシャトルの外壁が、高温にも耐えるセラミックス(陶器)で出来ていることは有名ですが、このセラミックスは、岩手県、津軽、東北、この地域の遮光式縄文土器(炭素セラミック)の成分を参考にしてNASAで再開発されたものです。 いずれ、日本人の先祖シュメール(皇)人が神によって与えられたこれらの技術は、聖なることのために使われる時は効力を発揮するにせよ、愛情の無い計画に対しては、災いとなることでしょう。愛情が無いとは、欲のために一部の人だけが生き残る、あるいは財を得る働きをいいます。日本先祖のテクノロジーは、聖に使われてこそ機能するように作られているのですね。
このことから、縄文時代といわれる太古の昔は、充分に優れた文明であったことが伺えます。また、北海道函館市では、9000年前の漆器(うるしを塗った器)が発見されています。漆を使う文明として、現在、世界最古といわれています。それを知ってか知らずか、日本は、世界的に漆器(JAPAN)の名前で呼ばれています。
【日本創世記】
4千5百〜4千9百年程前には、現在の東北地方に国が興って来ました。まさに高度なシュメール(皇)文明が逆導入された時期です。津軽で阿蘇辺王国が起こり、近畿に邪馬台王国、筑紫に熊襲王国、出雲に出雲王国、関東に日高見王国、と、続々と王国が建国されて来ました。ユーラシア大陸、朝鮮を経由して来た人々が、石川県(加賀)の三輪に移住し、100以上ある小国を統一して耶靡堆国(やまたいこく)を建国しました。 耶靡堆日子(やまとひこ)とも阿毎氏(あめ)とも言われる初代王は、耶靡堆国明日香(やまたいこくあすか)の箸香(はしはか)の山を三輪山(みわやま)と名付けました。 その後、加賀(かも)の三輪山神を現在の奈良県桜井市へ移し、これを三輪山大神として、その土地の大杉に住む白蛇を大物主神(おおもののぬししん)として祀りはじめました。 (三輪山は、日本のピラミッドなのですが、面白いのは、その山の形がただの三角形ではなく、調度四季の気温をグラフで表したような形であること。みんなのご先祖様が生きたまほろ場へ、一度は行ってご覧になられてください。) この時に耶靡堆国(やまたいこく)は国号を耶馬臺国(やまたいこく)と改めました。 この下に筑紫九州を耶馬一国、南海道三重和歌山を耶馬二国、出雲を耶馬三国、東国関東以上を耶馬四国と称しました。後に耶馬台族の安日彦王が耶馬臺国中央の王になり、合わせて五人の王を立てて政治を行いました。 多くの小国の族長(王)がこの時代の動きに敏感に同調して、倭国とも称される耶馬台国は、急激に頭角を表してきたのです。時代は安定したかに思われました。 ところが、紀元前680年頃、筑紫日向高砂族の佐怒王(さぬおう)が邪馬台国へ東征を行い、再び戦乱の世となりました。まず、佐怒王は、日向王五瀬彦を送り込みました。7年もの攻防戦でも決着がつきませんでした。この間に日向軍は、出雲族と合流して戦力を高め、耶馬台軍を後退させました。 8年後、八百隻の軍船を従えて、佐怒王と五瀬王が難波に上陸しました。 五瀬王は、この時、長髄彦王らの耶馬台軍によって致命傷を負い、討死しました。 そして佐怒王が将軍となりました。 この後、難波からの上陸が極めて不可能だと考えた日向軍は、紀伊半島を迂回し、熊野を通って耶馬台国を攻めました。深傷を負った長髄彦王は戦いに敗れ、東国へ一族を連れて退去しました。安日彦王もまた、東国へ同じく退去しました。佐怒王は邪馬台国を攻略して立君し、神武天皇として大和王朝を興し、日本紀元を称したとされていますが、それはこの時期からおおよそ30年後のことです。 一方、長髄彦と安日王は福島の会津で再開し、再起を願って東日流(津軽)へ逃れ、安日王を中央王として立君し、三輪郷(青森県弘前市)を中心に全く邪馬台国と同じ五王の制度を布きました。 ここに秋田の熟族、岩手の麁族を併合、長髄彦王らが津軽に来る前には晋の時代に敗れた遺臣、その一族が大陸から稲を運んでいて、津軽の日之本国荒覇吐王朝は豊かでした。 日之本国荒覇吐王讃日は自ら支那に赴いて馬を導入しました。 支那へ渡った際、支那東周王朝安王と友好があって、安東将軍と呼ばれたといいます。 騎馬軍を編成、秋田の石油を軍用に用いるなど新技術を駆使しました。 日之本国荒覇吐王済糖彦は、この騎馬軍を5万騎に膨らませ、日之本国荒覇吐王武波日の時には念願の故地邪馬台国(倭国)を奪還しました。 孝元天皇の邪馬台国立君を良く思わないでいる奥州各地の荒覇吐族長老達は坂東(関東地方)に興日彦王を立君し、彼を日之本荒覇吐王国正王としました。 これに激怒した武波日彦王は、荒覇吐族を脱して、自らを日本天皇と新め、(出雲、南海道、筑紫、山陽、山陰)を統一して王国を形成しました。 坂東の日之本国と出雲の日本国が激しく紛争を繰り広げたのが、秦始皇帝の甲戌20年だと伝わります。 またこの合戦の地が邪馬台国(倭)の那古、現在の名古屋です。 つまり、名古屋が西国と東国の堺でした。 孝元天皇の子供がやがて父のように邪馬台国を再び統一しました。 三輪山に即位したその人物は後に、開化天皇と呼ばれ民衆に親しまれる存在です。 一方、天照大神(ニギハヤヒ大王)が、大陸を巡り、中国を経由して秋田県と山形県の境にある鳥海山にやってきました。その時ニギハヤヒ大王が乗っておられた軍艦が、大きく見事であったため、後に人はその船を「天の岩舟」と呼ぶようになります。日本書紀に登場するその船は天空を駆け巡ったといいますが、筆者は当時の例えばギリシャの高度な化学文明を考えたなら、空を飛ぶような乗り物があってもおかしくはないと察するのです。 現実ギリシャでは、紀元前600年すでに歯車式の天体観測コンピュータが存在しており、現在はこれを応用して乳がんの治療などを可能にしているというから驚きです。 ニギハヤヒ大王は神祭の御式、呪い、医術などをこの島の民衆に広めました。 また、造船技術、武術にも長けていました。 ニギハヤヒ大王は、出羽に赴いて、しばらくの間そこに住みました。 その後、先に日本に上陸していた叔父の勧めがあって、奈良県生駒市に転進しました。 そして、生駒市富雄(鳥見郷)に軍の本拠地を置き、斑鳩周辺よりはじめて大和盆地を南に向かって治めて行きました。さらに南下して、三輪山という神山に移り住みました。 三輪山は日本のピラミッドといわれています。 鳥海山にあるような黒い巌がごつごつと、山の頂上に鎮座してあります。 この時、邪馬台国は大王不在でした。その変わりに、ある巫女が執権をとって、神事を司り、国を運営していました。 巫女の兄(長髄彦)とニギハヤヒ大王は酒を交わし、話していくうちに大変仲良くなり、長髄彦のニギハヤヒ大王への申し出が、是非とも三輪の地の大王になって欲しいという事であったので、ニギハヤヒ大王は王として鎮座しました。 ニギハヤヒ大王は、新しい国つくりを平和的に遂行してゆきました。 数え切れないほど多くの日本の諸国の王、族長を天理市石の上へ集めて、共和体制をしきました。 また、奈良県天理市石の神に、武器を納めさせ、他部族の侵攻にそなえさせました。 また、この事は刀狩を兼ねていました。 以上の流れが解かり辛いのだといわれる歴史通の方のために、もう一度創世記の説明をいたします。 平和な日々が続くと思っていた矢先に、北九州より圧倒的な軍事力をもってウガヤ王朝(騎馬民族)の二二ギが大和の葛城山を降りて、三輪へ一気に攻めてこようとしました。ここで長髄彦王が敵軍二ニギの軍に対して攻撃をしかけました。 ニニギの軍は一度長髄彦の決起にたじろぎました。 そこでニニギの軍は紀伊半島を迂回、熊野に上陸しました。残念ながらニニギの兄弟は先の戦いで負傷しこの時すでに息絶えていました。ニニギの軍は、地元の豪族と戦いました。ニニギは自分こそが天孫であると信じているので、日本の原住民を熊襲とか土蜘蛛といって虐げました。虐げられた原住民も、そのままでは腹が立つのでニニギの軍勢に力の限りに歯向いました。日に日にニニギ軍の民はその数を減らしてゆきました。そういう最中、三輪山の東南、磐余の地にあって、両軍は対極しました。緊張の真っ只中で、長髄彦は臣下を使者としてニニギの元へ何度も行かせました。 そして、「なぜ天孫ニギハヤヒ大王に楯突くのか」と問いました。 と、その時、二二ギは、自分と同じ天神の御瑞を、ニギハヤヒ大王が持っている事を察しました。 かくして一時休戦をしき、ニギハヤヒとニニギは御瑞を見せ合い、確かに両者が持つものが本物であることを確認して、ニギハヤヒは、ニニギが同族であることを認め、武力による支配をしないという条件を出して、二ニギに国を譲ることを約束しました。二二ギは後に崇神と称されます。しかし、面白くなかったのは巫女の兄の長髄彦です。 長髄彦は、また決起して、二二ギをやっつける覚悟であることをニギハヤヒに伝えました。ですが、どうしても和睦の道をとらない兄を、ニギハヤヒは東北へ逃しました。 巫女と手を携えてニギハヤヒは共に、島根県出雲市へ移り住みました。 ニニギは、ニギハヤヒと出会った事を大切に思い、抵抗勢力に対して極力武力を使わない方法を取り、臣下として地位を与えていきました。勿論、ニギハヤヒへの恩情は忘れておらず、ニギハヤヒを兄と慕い、出雲の国の宮は国中の大工を集めて盛大なものを作らせました。二ニギは、事あればニギハヤヒに占いを立ててもらい、神示を聞きました。 今風に言えば政治の相談という事です。二人の仲のよさを表すものとして、今現在も日本では大黒恵比寿像として両者を共に神として神棚や仏壇に祭る慣わしがあります。
ニギハヤヒの別名は、スサノオ、天照大神、国常立尊、丑寅金神、十一面観音、不動明王、大黒さん、おおなむち、大国主命、大物主命、牛頭天皇、閻魔大王と、色々です。
ニニギの別名は、佐怒王、神武天皇、崇神天皇、恵比寿、神日本磐余彦尊かむやまといわれひこのみこと 狭野さぬ、さの 始馭天下之天皇はつくにしらす 彦火々出見 ひこほほでみ 宇禰備能可志婆良能宮御宇天皇 うねびのかしはらのみやにあめのしたしろしめすなどで親しまれています。
【鬼門】
日本では、鬼門として祭られている方角があります。それは、東北と西南を表しています。鬼門とは、古来から日本人にとって忌み嫌われるもののように捉われてきたようですが、実際の意味は違います。その意味は、この唄に示されています。日本には「かごめの唄」として親しまれている童謡があります。
かごめ かごめ
かごの中の鳥は
いついつ出やる
夜明けの晩に
鶴と亀とすべった
後ろの正面だあれ
これを解りやすく翻訳するとこうなります。籠目は六角形、六母星古の国。その隠されてきた真実はいつ解き明かされるであろうか。それは古代日本が思い出される頃です。伊勢と出雲で祀りを行いました。後ろの正面、三輪山で政治を最初に行った大王を、封じ込めるためでした。その大王は誰でしょう。この唄は、ニギハヤヒの共和政治、人間としての暖かさへの慕古心からきました。大黒様として奉られている神への憧れです。 そういう情け暖かい人間が統治者として居て欲しいという日本人の期待です。 ですから、ニギハヤヒの居た秋田、出雲、三輪は聖地と考えられ、三輪山から見て、鬼門(丑寅、西南東北)は、決して汚してはならない方向だとして、代々日本人に言い伝えられてきました。それは、また日本の天皇が統治を行っていく上で、このように完全に誤解の無い形で言い表せる日本人が現れない限りは、タブーとなってきたことなのです。 かといえ、このことは、神道に本当に通じている日本の神官や僧侶には知られています。 日本に来て、これを聞いたからには、方角にこだわらず、全ての方角の死者に対してありがとうと思えるようになれれば良いのです。あっちもこっちも土地を汚したり乱開発したりすると祟りが有るというのは、まんざら嘘ではないのです。 祟りとは、先祖代々の叡智、教えをないがしろにしてきたために、思わぬ災害に遭遇するという意味です。 これに補足として、日本には北枕は駄目だと言う風習がありますが、全てのものは北極星(N極)を向いて吸い込まれていっている事実を考えたなら、北枕は自然の流れに逆らわない形だということに気が付きます。それに気付いたのはお釈迦様(ゴータマ=シタッルタ)であって筆者ではありません。 しきたりを重んじる日本人は、なぜ今上天皇陛下が三輪山にではなく、出雲へ参詣へ行かれる理由がお分かりになられたことでしょう。そして、天皇陛下の言葉が、何故世界平和を望むと最後にいんを結んであるのかに気付かれるはずです。それは、国譲りをしてくれた人間、ニギハヤヒへの感謝と、長い歴史の中で、王たる王が、平和こそがこの地球に最も必要なことなのだと心からと過去の残虐を反省して思い、言い表しになられる、それ即ちは、日本の父権、天照大神ニギハヤヒへの御誓いなのです。 また、ニギハヤヒ大王の教えは、日本語50音の語源といわれる「ひふみ祝詞」に鮮明に伝えられています。筆者が1996年、環境保全を奈良県の天理は石神神宮で神に誓った際、ふとその意味を直訳してみましたので、ここへこられた皆様に特別に教えてさしあげましょう。
* ひふみ祝詞*
{ひふみよ いむなや ことをちろらね しきる ゆるつあぬ そほたはくめかうおえに さりえてのます あせへほれけふるべ ゆらゆらと ふるべ}
生まれ出て、上より恵まれ、下から慕われ、物事がまさに始まろうとしている。 様々な「人」、「物」、「情報」が、集まってきて、万事は順調にゆく。 信義を、もって対処するならば、良縁に恵まれる。 万物が、生まれ、少しずつその範囲を広げて、全ての事物が凝りなると、準備万全、 まさに、水蒸気のように運気が立ち上がって、進みゆき、栄える。 人に、親しみを得れば、人々の和を得て栄える。順風満杯とは、まさに、このことである。 次に、この成就したもの、「組織」、「会社、「機関」などが、親子上下で背きあい、 小さく分裂する。 それらは、陰陽共に相和して、栄えてゆく。 それらが、あるがままに、進んでゆくという事は、力強く、変化に満ちているので、 蟻一匹殺さない様な気持ちで、よくよく、心和らかに対処してゆくべしである。 我々の願い、「世界の和平樹立」は、徐々に浮かび上がることは、成り難い。 陰陽の因子が、並び、共通の求める幸せの為に吉祥を招き、天地「男女、善悪、陰陽」 が、一つと成った時に、世界の全ての願いは成就する。 苦しむ人は楽になり、盛んな人は、衰える。是をもって、万邦は、和楽する。 全ての人が、幸運を得て、立ち上がる。因って、何人も、人の求めに応じて、 全ての事に一歩退いて、対処することが、必要である。 平常なる心で活きてゆこう。心配することはない、大丈夫だ、平常なる心で活きてゆこう。この祝詞の意味を聞いて、仏教の「般若心経」を思い出された方も少なからずおられるのではありませんか。そうなんです。ことの見事に意味が一緒なのです。言うならばアインシュタイン博士の相対性理論。「空」の教えです。 般若心経は難しいことを散々言いまくった挙句に、呪。即説。呪日羯諦。羯諦。波羅羯諦。波羅僧羯諦。菩提娑婆訶。般若心経。と言っています。
つまり、難しいことはいろいろ申しましたが、最終的に決めるのは未来を生きる皆さんなのですよ、と、三蔵法師がインド語を中国語に翻訳してるんです。是すなわち、呪文にして残すには・・・・残せません。だから行きましょう行きましょう彼岸の岸へ、皆で手を合わせて。そういう意味なのですね。全く瓜二つですね。だから、神仏が違うもののはずが無いのです。
【大和朝廷】
崇神天皇は、三輪王権を樹立しました。またここに、市場を設け、市場の発展を促しました。これまで、完全な統治というものが存在しないで居たことから、この地域は安定していて、そして栄えました。ため池の設置、都の造営、急ピッチで新都の建設がなされました。これを、実質としての日本国の一宮、磯城瑞垣宮といいます。現在の平等寺、そして天理教敷島大教会のエリアがそうです。天理教の敷島大教会という立派な教会があるのですが、この敷島とは、古代日本語で国の目という意味です。つまり、古代日本語とはアイヌ語、そして沖縄に伝わる言葉です。 また、この時期に大三輪の神を三重県の伊勢に移し、男神であるニギハヤヒを女神にしました。身の保身とともに、「母性」にすがる思いで、歴史を塗り替えた訳です。誰も好き好んで戦争をしたいとは思いません。イシュタルとも女神とも言われるシヴァの神を故国より導入したのでしょう。 付随ですが、伊勢鳥羽のイゾオ宮には、キリストが十字架にかけられたときに頭に被っていたものと同じものが、あります。現在グローバル時代と言いますが、実はもともと世界はグローバルであったことの証明です。 都の建設は時代が過ぎても尚続きました。 そして、現在の奈良県桜井市エリアは、日本国(倭国=邪馬台国)の中心として栄えました。ところが、これを揺るがす出来事が、538年、突如として起こりました。それは朝鮮半島の戦争に倭国が巻き込まれるという形で起こったのでした。この時、欽明天皇かなさしの宮へは、観世音菩薩という仏の像が百済(今の韓国)より送られてきました。そして、百済の要請は、北方と戦うにより倭軍の援護をお願いしたいとのことでした。 552年には法興寺(現在の飛鳥寺)が蘇我馬子によって建立されました。この頃、後の世に聖徳太子として親しまれる皇子がこの国に生まれています。その皇子は将来、実質この極東アジアの連合軍の大将軍となります。また、深く印度神道である原始仏教を受容していました。 古代の哲学者であった太子は、乱世を治める雛形を仏の教義に求めたことは確実です。 興味深いことに、彼の偉業を修めたと伝わる大成経には、大三輪神社に僧侶を招集し、祈祷させたという旨の記述があります。これが581年であり、日本国はじめの官営寺院「大三輪寺」現在の平等寺の開基でした。 大三輪寺には、百済仏の十一面観世音菩薩が安置されました。 彼は、その仏を、十一の顔をもって、苦しむ国民を救ってくださるニギハヤヒになぞらえました。 天多利子北狐(聖徳太子)は倭王と名乗って、隋の皇帝煬帝にアジアの共栄圏の指導権を自らに与えて欲しいと嘆願し、皇帝煬帝は日本では有名なこの「日出処天子」から始まる嘆願書を直ぐには容認しなかったものの、「西天の菩薩」と褒め称える真摯な姿勢を労ってか、結局、倭王に極東における独裁権を与えました。 律令を導入し、12級の階級制度を設し、17条の憲法を制定しました。三輪王権が、この頃すでに大和王権となっており、そして更には、大和朝廷となった瞬間でもありました。この「大和」とは、中央アジア、ヤマドゥーの民であることを現しています。皇帝という言葉を耳にしますが、皇の下に帝があるのであり、皇とは「シュメール」であり、帝とは「ミカドゥ」のことです。以前帝族はわれわれ皇族の意見を黙殺し、大日本帝国を名乗って廃仏毀釈し、戦争に挑みましたが、賊徒である「帝」をかかげたために、軍隊に規律が無く、敗戦したのです。大日本皇国と名乗っていたならば、敗戦はおろか、無益な戦争に駆けてゆく必要すらなかったことでありましょう。昭和天皇は、われわれと同じ皇孫であられながら、帝孫を側近、官僚に置かざるをえなかったために、完全な支配権を得られなかった。これが、神道を基本としていながら、日本が不名誉な惨敗に至った原因です。 わたしは差別者ではありませんが、歴史は血に貴賎があることをはっきりと証明しています。 貴とは、人の命を敬い和平を望む者。賎とは、盗み殺めをし戦争を好む悪魔たちのことです。 ヤマドゥーは、騎馬民族の国という含みを意味しています。
【17条憲法の現代語訳】
■第一条 仲良くお互いの心を大切にしよう。実績のある人に逆らわないように心掛ける。人は皆それぞれに考えがある。それゆえに、あるいは天皇に従わず、臣下と意見が違うことがある。しかし、上の立場の人は和し、下の立場の人は仲良くして、事を論ずるに和をもってすれば、事理はひとりでに通じて、功を修めることができる。
■第二条 日ノ本国の官僚であることを忘れず、この憲法を守り、皆仲良くする。これは、全て倭国民の基本理念である。時代が変わろうとも、この基本理念を疎かにすることは考えられない。仕事仲間は兄弟と思い、善き事をよく教え合おう。 この憲法を守らなければ、誰が日本を守るというのか。
■第三条 天皇の決定は、謹んで実践しよう。全員の決定は個人の決定であらねばならない。個人の決定もまた全員の決定と相違してはならない。例えるなら、日本は人の身体と変わらないのである。 組織たる天皇からの伝達は、曲げることなく官僚に伝える。また同じく官僚の意思は曲げることなく天皇に伝える。
■第四条 この国家の基本は礼である。上司に礼がなければ部下は整わない。部下に礼がないときは必ず罪がある。 礼のあれば、関わる人は皆やさしく、楽しく暮らせるのである。
■第五条 接待を絶ち、公の利益を重んじ、部下の訴えを公正に聞くべし 。また、官僚や、他の団体に対して賄賂を送るなど、談合を持ってはならない。
■第六条 功労を称えよ。また、不正をみては必ず究明せよ。上司に諂い 嘘をつく人は国を退廃させる大きな癌である。また、おもねり、媚びる人はえてして、上司に対して好んで部下、同僚の過ちを言い、部下、同僚には上司の失敗を誹る。このような人は天皇や官僚、人民に忠心が無く、人に仁愛をもたないものである。それが国家が乱れる本になるから、警戒し、人選を誤らないようにする。
■第七条 人それぞれ任された立場がある。それぞれの役職を混乱させてはならない。賢人が任務すると賞賛の声が起こる。邪悪な人が任務すると、災いや混乱が度々起こってくる。 生まれつきの知者は少なく、よく思考して初めて気が付いた人となることができる。事に大小があるわけではなく、時に緩急があるわけではない。賢人になって自ずから寛大になると古来より言う。これによって国家運営は遂行され、続き、国運は危機を退けるのである。ゆえに、昔の賢い統治者は国のために人を求めても、個人のために人は求めなかったのである。
■第八条日本国を愛す。
■第九条 信じることは、義の本である。全てのことに信じる気持ちがあるべきである。善いこと悪いこと成功すること、失敗すること、すべて信じる気持ちによっての事である。国家に皆互いに信じる気持ちがあれば、何事も成功する。逆に信じあわなければ、すべて失敗する。
■第十条 憤慨せず、怒らず、そういう得に成らない気持ちは棄てて、他人が自分の意見と違うことを怒らない。人にはそれぞれに心があり、思うことがある。他人が良しということは自分には非であり、自分が良しとするものは他人には非であるもの。これほど時代が進んでも、一向平安穏便にできる人がいないのだから、誰が偉いという話も無い。 故に誰しもお互い様なのであるから、他人が怒ったら自分に過ちはないか反省せよ。自分ひとりが分かるようなことでも独断せず、天皇や官僚の意見に従って行おう。
■第十一条功績を明察し、賞罰は必ず的をうるようにしよう。日頃、功績の無い人を優遇したり、罪の無い人を責めたりしないようにする。
■第十二条 官僚は、部下に酷い条件を与えてはならない。責任ある人は、人の心を預かるので、それぞれに重大な使命をもってこれを行う必要がある。
■第十三条官僚は、仕事の足並みを揃えよう。万一連絡が行き届かない場合も、それを知ったならば速やかに同調せよ。自ら報せを聞こうとせずに国政の仕事の邪魔をしてはならない。近況を知るのは官僚各位の権利であり義務である。いかなるときも、遠慮せず連絡をし合う。これをもって意思を疎通する。
■第十四条大臣として任務を担う人、その部下である人も、嫉妬をしていてはならない。自分が他人を嫉む時は他人もまた自分を嫉んでいるものだという。嫉妬の弊害は限りない。ゆえに、知能が自分より優れている他人を見ると悦ばないし、才能が自分より優れている人に嫉妬する。嫉妬するなら、相手より学ぶほうが良い。己の弱さに甘える事無く、先に進もう。
■第十五条私情に走らない。国営の大体が見えていない時、必ず恨みに思う人が現れる。恨みが有る時は必ず同じ心ではない。同じ心でなければ、私情で国家の行事を妨害する結果となる。ゆえに、第一条に上下調和を提唱するのは、この大事を安定に導くためである。
■第十六条 官僚は国政に労働する人を、時期や状態に相応して選び、活動の範囲を広める。 国、団体、個人の特性を見定めなければなるまい。
■第十七条 物事を独断で決めない。必ず多くの仲間と相談しよう。小さなことはいちいち人々に相談することはないが、大事に関しては独りでは失敗があるかもしれない。ゆえに、おたがいに相談すれば、正しい道を得るだろう。
どうですか、例えば天皇を総理大臣、官僚を代議士と言い換えれば理解しやすいはずです。もし、この憲法を今の時代の日本の政治家が理解し実践していたならば、日本はこんなに混迷の時代に入らなかったことでしょう。
【信仰の衝突】
天多利子北狐(聖徳太子=厩戸皇太子)は支那より来た蘇我の血を半分は受け継ぎながらも自らがニギハヤヒの末裔であることを欽明天皇より教えられて良く知っていました。 だから、海部氏や物部氏や安部氏とも同じ流れの一族、つまり天照系であることを懸念していました。予想通り蘇我氏と物部氏の宗教対立が激しくなってきました。 飛鳥時代といわれる大和朝廷の創成期にあって、宗教的な祭事の実権を握り、朝廷の中において占いを任される事は、即ち、政治の実権を握ることも同然であったため、日本古来という物部氏のプライドと、朝鮮からの移民者であり元々仏教信仰者であった蘇我氏のすがる様な思いが、こっぴどくここで熱い火花を散らしたのです。物部守屋は、聖徳太子の母親の宮、豊浦寺を放火、襲撃しました。焼け落ちた寺の中から、観世音菩薩の小さな像が村人によって救助され、それを物部の勢力から隠すために、難波の海に沈めます。 後の世の話、今長野に善光寺という世界宗教会議の主催地にもなるほどの有名な寺院がありますが、そこの本尊が実はこの観世音菩薩です。今吃驚なされた方。誰が海から善光寺まで運んだと思いますか。それは、「応神天皇」の子孫の方です。応神天皇(ダビデの末裔)の別名は「ホンダワケノミコト」、全国の本田氏の始祖(主)です。
この時代より策略家であったのが、中臣氏です。中臣氏もまた、祭祀を司る一族で、後の世に藤原として名を残す豪族です。中臣氏は、天皇の代わりに祝詞を神に謳い上げる役目をしていました。 物部と同じく神社の職務を司る中臣氏にとって、物部氏の存在は利権という計器に載せては目の上のたんこぶでした。 もし、中臣氏にとって、蘇我と物部が一機に滅びる道があったとしたら、それを機会と捉えない事があるでしょうか。 この時期、女帝推古が天皇であり、摂政は聖徳太子であったといいます。 女帝は蘇我入鹿をまことに可愛がっていました。推古天皇は入鹿との深い関係を暗示させる記述が残っているほどの溺愛ぶりです。それもあってか、聖徳太子は、推古天皇から薬を頂戴しても飲みませんでした。 仏教ではそのことを貧民に高価な薬を飲ませた聖人の如きに描いていますが、実際、この蘇我入鹿と聖徳太子は、以下において極力似た存在でした。 後世に残る一つ星の大業を治め多大な実権を握っていたという事実に関してです。最大の実力者となった蘇我入鹿は、親戚の皇子を皇位につけるために、山背大兄王一族を滅ぼしました。 しかし、どういうわけか、聖徳太子の親戚である蜂子王と太子の第三子である幼い丸子王だけは、先祖ニギハヤヒの縁の出羽へ逃れることが出来ました。彼ら二人はおおよそ先祖への信仰心の篤い人物で、権力とは無縁であることから、存亡の危機を免れたであろうことは、子孫である私が一番思い当たるところです。 朝廷からの脱出は、最大の権力者の配慮が無ければ達成できないことです。 果たして蘇我入鹿は歴史で語られるように悪人だったのでしょうか。
大阪の大聖将軍寺では、敗者となった物部守屋のすぐ後ろに聖徳太子像が安置されています。奇妙な配置はおごそかに慎ましく真実を物語っています。また、これを大化の改新というべきかどうか、蘇我入鹿が中臣鎌子と中大兄皇子に暗殺される寸前、「一体何故私が斬られなければならないのか」と喚いたといいます。聖徳太子の死後、秦の始皇帝(ダビデ王の末裔)の子孫という秦河勝という人物は、太子が生前朝廷の官僚としては珍しく、海外の人間も平等に扱ってくれたことと、日本での出世の糸口を開いてくれたことへの感謝と敬意で、聖徳太子に祭らう伝説を多く作り、景教、キリスト教にちなんで、太子の存在を誇張したりと、至れりつくせりの大業をなしました。 良くも悪くも聖徳太子の名を作り、後世に贈ったのもこの河勝公です。京都の有名な賀茂神社、籠神社、広隆寺など、多くの祈りの場を建造しました。それは、即ち太子信仰や(山王・山岳)自然信仰と結びついて行きました。 中臣鎌子は藤原姓を天皇より授かり、死後遺骸は、茨城鹿島から大阪府高槻市に埋葬されて後、藤原鎌足として長男の定恵によって679年に談山妙楽寺を建てて祭られました。 この頃の藤原氏は、まるで天皇のように振る舞いました。政治の中心は、奈良県橿原市、藤原京へ移されていました。 しかし、疫病は流行るわ、藤原の親戚や子孫が続々死ぬので、これはどうかしたものかという事で、日本始まって以来の大工事が始まります。
【大都平城京の建設】
日本がはじまって以来の大工事です。 現在の奈良市を埋め尽くす規模の、壮絶なスケールの都が誕生しようとしています。この都の造営を企画したのは、藤原鎌足の次男で名を藤原不比等といいます。日本に詳しい方はご存知かと思いますが、春日大社に祭られています。日本史上貴っての切れ者です。また、この時期から、東大寺を中心に国営の寺院が、全国に作られてゆきました。 平城京は、中国の風水という統計学によって管理されています。都の東に藤原氏権力の象徴、春日大社があります。 この春日大社を頭に、大和の神社は線で結ぶと、大男が大和神社を足で踏みつけるような形で作られています。藤原氏が、ニニギの天皇家が権力を握ることを封印している姿です。そして、東大寺の大仏は、ニギハヤヒ=スサノオを表しています。また、東大寺の奥院二月堂でのお水取りは、日本ではあまりにもポピュラーな行事ですが、実はこの時、僧侶たちが唱えているお経の中に登場する神々の名は、天皇家に殺された日本人たちの名前です。藤原氏と天皇家は、自分たちの犯した罪を購う為に、平城京という大都を建設したというのが良識の有る学者の通説です。この時代からすでに、天皇を神輿に担いで豪族が好き放題やるという図式が出来上がっています。治世を求めたものの、これから先は、江戸になるまで戦争や災いの続く恐ろしい時代に入るのです。行基が命をかけて公共事業に没頭し、鑑真が命をかけ、失明してまで平城京に来たにも関わらず、一向に世の中は良くなりませんでした。それどころか、人々は狂乱し、まさにそれは芥川龍之介氏の羅生門に出てくるようなおぞましい世界なのです。 また、東国「日本国」を蝦夷と蔑視しました。 そして、「それ」は、あからさまに天皇家と藤原氏族が、身の保身をかけて行いました。 坂上田村麻呂を将軍に、日高見(現在の岩手県北上市)へ大軍を送りました。 紀元前は名古屋まで拡張した日之本国(日高見)も、この頃は大和の勢いによって領土を狭められていました。
その日高見の国王日本天皇(ひいのもとてんのう)をアテルイといいます。大和軍にはアテルイを殺さなくてはならない理由がありました。それは、以前解説した通り、日之本国は荒覇吐族であり、日本古代王の源流です。あのニギハヤヒとも通じます。もう一つ言えば、アテルイとはアルタイの同義語で、日本におけるアルタイ最期の王、つまり皇孫であられたという事実です。またアルタイとは、鷲のことであり、神武天皇東征の際には猿田彦として登場します。 猿田彦とは、「新天地、アルタイ(日本)の王」という意味です。 日高見とはその日之本国の首都で、大和は大都平城京の完成とともに、日本国にいつ挙兵されるかという不安を一掃しておかなくてはならなかったのです。そして、またも間違いを犯してしまいました。 日之本天皇アテルイが大和に捕らえられ、大坂にて処刑され、津軽神(カムイ)の繁栄も幕を閉じるのです。
<南部牛追い唄>〜岩手の民謡〜
田舎なれどもさはえ
南部の郷はよ
西も東もさはえ
金の山こりゃさんさえ
今度来る時や さはえ
持ってきてたもれよ
奥の御山のさはえ
なぎの葉をこりゃさんさえ
備考:なぎの葉は(天皇家象徴)草薙の剣
意味は先程の解説を参考にして下さい
結局これは、天皇を中心にして利権に群がる政府役人と土建業者の談合、この世の花とばかりに性を謳歌する民衆の最悪なコンビネーションがもたらした狂気です。利権は財政のピラミッドを形成し、それは貧しい階級の一般人には届かないのです。性の混乱は、多くのウィルスを暴発させ、女性の子宮を汚し、男性の機能をも腐らせます。そういう時代にあって仏教を履き違えた俗論が横行して、けがれ思想の名の下に、大都平城京は焼き払われました。これは軍が火をつけたのかどうかは定かではありません。いずれ、治らぬ疫病にかかった人も同時に生きたまま焼かれたのです。 なぜか官僚や金持ちはそこへは居ません。歴史は繰り返されます。そして京都府加茂郡(慕仁京)へ4年間遷都されました。争いが絶えなかったため、充分な施設も創れぬままでいました。
【天平時代の幕開け平安京】
平安京は、名高い呪術師、安部晴明によって見事に結界の張られた都市です。備考ですが、安部晴明公は聖徳太子と同じ天照一族の人です。結界とは自然界の調和バランスを考え、都の邪気、穢れを祓うための目には見えない技術のことです。サイエンス「科学」と言えば解りやすいです。また天台宗の開祖、最澄が大和大三輪寺から脱却し、京都平安京の最東比叡山に大神神社の御霊を持ち出して安置しています。その頃、弘法大師は、和歌山高野山を建てる前に大和大三輪寺に上がり、遍照院を建てております。またそのすぐ後に、日本で神仏習合を完成させた慶円三輪上人が、大和大三輪寺の寺号を三輪清浄、一掃平等なることを祈願して「平等寺」に改めています。平等寺の印はロシアで言うシャングリラ(理想郷)の印と良く似た形で、丸が三つ重なったものです。日本では一部の知識人がこれを自らの印として自由に使っています。また、この時代の建物も仏像もオリエンタルの影響を多分に受けたものが多いです。 朝鮮から来たシンプルでスレンダーな渡来仏と対比して、まろやかであり腰が美しくくねっていたり、ふくよか立体的などという印象を受けます。 京都盆地の中に突如現れたその都は、この世の富を結集してガラスの蓋を閉じてしまったかのような華麗さ艶やかさでありながら、風通りの悪い息苦しい都でした。さることながら、人は都を愛し、全国からは容姿端麗な美女が集められました。そのことが更に京の都の人気を盛り上げました。
しかし、政権がらみの紛争は、平安という都にあっても、尚も激しく続いていました。ここに初めて登場します菅原道真公。この方は、仕事に熱心であり、人情に篤く、学者肌であり、かつ国の民のことを考えて行動するまさに求められた政治家でした。当然時の天皇からの信望もあつく、右大臣として歴然と名前の知れた大人物です。しかし、藤原氏にとって、これほど大きな壁も滅多にあったものではありませんでした。当然にせよ目の上の大たんこぶであったのです。 菅原家からの政権の完全奪取を目論んだ藤原氏は、道真公が天皇に謀反を企てているとのデマをはなはだと垂れ流し、無実の罪を着せられた道真公は、西の果てに島流しされ、悔しさとやりきれなさの獄中で死んでいきました。 そのあとの話は日本人の中では有名です。 ある日稲光と同時に、道真公を大宰府へと左遷へと追いやった張本人の藤原時平の屋敷清涼殿に、あろうことか雷と同時にプラズマの火柱によって胸突き刺され、不幸の死を遂げたのです。 それだけではありません。入鹿を殺害し藤原京を作ったあの時と同様、藤原の子息一族がわけもわからぬ病気にかかって続々と死んでしまったのです。 これでは、一族の存命に関わると判断し、朝廷直々に天皇が菅原道真公の菩提を弔うために全国に神社を設けました。これが天神さん、天満宮と呼ばれています。
今も、道真公は、学問の神様として、篤く国民の信仰の的となっています。またこの頃日本史に名高い俵藤太「藤原秀郷」が関東にてあの東京の守護神といわれる平将門公を打ち破っています。 平氏は桓武天皇(支那渡来系)の末裔であり朝廷では総務的な役職に携わっていましたが、この将門公や清盛公は大王の名にふさわしく、坂東貴っての武人でした。 将門公は秀郷の終生のライバルでもあったのです。また秀郷は、全国に最も多いという苗字、佐藤氏族の主(もと)でもありますから、藤原氏に縁の有る方は是非覚えていてください。
【鎌倉の世】
この時代は日本を説明する上でも重要な事件がありました。それは平家と源氏が存命を掛けて争った一騎打ちの壇ノ浦の合戦です。平家は無敵の水軍を誇り、源氏は無敵の騎馬隊を組んで片や海、片や陸の攻防戦を繰り広げていました。戯曲に有名な平家物語・・・・祇園精舎の鐘の音諸行無常の響きあり ここで、平家は幼子であった安徳天皇を最後に滅んでしまうというのですが、安徳天皇は生き延び、実話和歌山市で父君高倉天皇を祭る高倉寺という大きな寺院を立てているのです。 武名を成して死ぬよりも、隠れても父君の菩提を祈ろうとした青年いくばくの安徳天皇は、例え敗者だとしても、その情けはあの世から現在を照らしているはずです。実際筆者も4年前25歳のある日、今は明治の廃佛の影響で小さく整理された「小庵」とも名のつかぬ小さなあばら屋に導かれており、その中には確かに高倉天皇と安徳天皇の御位牌が二人並んで静かに鎮座していましたのを拝みました。不思議なもので、当時お付き合いさせていただいておりました彼女の姓がまさしく平であり、これには底知れぬ偶然とも思えぬ何かを感じずにいられませんでした。どうか、日本人で平に縁の有る方々、和歌山市高倉寺跡に行って差し上げてください。 坂東(関東)の鎌倉へ政治の拠点だけ移してしまいました。 時の執権北条時宗公の兄である北条時頼公は、京都で膨れ上がった財政赤字を、一体どうやって解決するべきかということにあって、遊んで止まない公家たちの一掃を図る事も現実として不可能と見切りをつけて、鎌倉に武家の仏教楽土という一見あい矛盾したユートピアを形成しました。 しかし、この北条時頼公、以外や以外、日本を名だたる時の僧侶達から壮絶なラブコールを貰った人物でもあります。 ラブコールとはいえ、それは媚びるというより反対でアンチ北条政権といえるものでした。 二度の元寇をまともに喰らいました鎌倉幕府、その執権は気性が甚だ激しかったことは言うまでもありません。 源氏の忠臣を滅ぼし、将軍をも謀殺して承久の乱にては三上皇を島流しにまでした北条政権とは、自らの病理と現実の恐ろしさ、その両方を斬って斬って斬り捲った周到であり臆病な体制でありました。 だから、赤字で出来もしないのに、家臣たちに所領を使わすなどと、根の無い話をしまし、計画性を持たない幕府は崩壊に向かいました。計画性とは、家臣、人民の意見を聞く耳持ってこそ初めて沸いてくる知恵のことなのです。 言えば北条家に歯向かう家臣はおらず、独裁体制は見事な裸の王様を育て、家臣が見るものといえば無駄に過ぎてゆく時間と滅び行く幕府の姿だけなのです。実際、当時も日本の経済は破綻寸前であり、台風でも吹いてくれなければ元寇を追い払うことなど到底むりでした。 ところが、日蓮上人、親鸞上人、道元禅師に寂園禅師、一般の方々に至るまで多くの争事を遠ざけたいと祈る仏道の力が結集してか、はたまた突発的な気候の変化なのか、台風が来て、二度目の元寇は木っ端微塵に海のモズクと消えうせたのです。 元寇に一番恐れたのは寂園禅師でしょう。
元の恐ろしさを現実に知っている人物の一人であったことが理由です。 現在で言えば中国福建省から来た寂園禅師というこの高僧は永平寺の二世を決めるにあたって、権力抗争から自ら退き、福井のこの山奥にある巖を選んでなんと18年間単座しました。時代が変わっても人間のすることは何も変わらない。鎌倉時代当時もこのように争いが絶えず、世の悲しみを消しさるがために、心から平和を願い一人で巖に座し続けたその僧を、通りかかった藤原一族の知円らが、寂園禅師に帰依して建立した寺院を宝慶寺といいます。 宗祖道元禅師の真髄を、宝慶寺の歴代住職が脈々と伝えてきたのです。 宝慶寺の宝物館には、道元禅師が北条時頼と話し合った記録が文書として残されています。 これは著者が実際にそこでいて1年過ぎの間の修行中に見かけたものでした。 その時のエピソードに、道元禅師が北条時頼公にお話をする下りがあります。 インドのお釈迦様の時代のお話を講じてらっしゃいます。
道元禅師「いいですか、時頼殿。」 北条時頼「何でも申せ。」 「アジャセ王はマカダ国王子でした。父を殺害し、母を牢に幽閉してでも即位しましたが、この悪玉王もさすがに心が痛みました。アジャセ王は6人の大臣を次々と呼んで悩みを訴えましたが、6人は言葉巧みに王に取り入り、王の行為を正当化してなぐさめようとしました。しかし、当然のことながらアジャセ王の心のうちは晴れませんでした。後になり王は、釈迦の教えを受ける機会に恵まれました。」 ここからは、の想像ですが、「アジャセ王よ、あなたは自分に都合の良い者ばかりを擁護し、批判をしたり、本当に貴方を思って注意してくれる人をないがしろにしてきたでしょう。その結果、あなたにとってイエスマンばかりが増え、民の悩み、国の悩み、はたまたあなた自身王の悩みについて全く助言が聞けなくなった。どうですか、思い当たることは無いですか、時頼殿。
そう言われて室町時代に入ってから、義堂周信が三代将軍と政治事の話し合いのとき、「永平長老の平氏にすすむる」白衣舎示誡が話題に上ったというから驚きです。つまり、時頼公は身にしみて話を聞いた事になります。平氏とは、北条家のことです。
【南北朝の時代】
南北朝に分かれて天皇たちが争った時代です。後醍醐天皇と崇徳天皇は争い、崇徳天皇は讃岐へ島流しに遭いました。崇徳天皇は指を切り、その血で京都へ還りたいとの嘆願書を書くのですが、それでも願いは叶いませんでした。崇徳天皇は、天皇家を呪いながら死んでいきました。 「地は天となり、天は地となるであろう。」 この懸念の通り、以降天皇家(皇族)は日本国の政治をとることが出来なくなりました。
【室町幕府武士の時代】
ここで改めて武士の説明をします。天皇が外へ出られるときは、護衛が付きます。今で言うところのシークレットサービス、SPとでも申しましょう。ですが、その持者たちの集団が、組織化されてゆきました。元々豪族であった彼ら雇われ者たちの間で権力欲が出てきました。天皇に願い出てはれて侍「さむらい」と名乗り、呼ばれ始めた彼ら武装集団は、朝廷のセキュリティー上の立場を持って徐々に頭角を顕にしてきました。そして、代表者たる足利家は軍事を司る最高職、征夷大将軍の座を手に入れました。3代将軍義満公は、その権威を誇示して金閣寺を造営。栄華を極めました。
この時代の僧に一休禅師という日本の名僧がいます。一休禅師はまさに一休禅ともいうべき人生をまっしぐらに突き進んだ僧です。室町と言う時代は特に家柄を自慢したり、華やかであることを都では見せびらかすような模様仕事が多かったです。そういう時代ですから、当然僧侶も退廃しておりました。一休禅師はたいへん聡明な方でした。聞くところによれば、天皇陛下のご落胤であられたと言われています。寺の会合に集まった僧侶たちが、自分はどこどこの生まれであるとか、どのくらいの寺に住んでいるとか僧侶にはあるまじき言動を行っていたのをご覧になられ、えらく落胆されました。それから、幼少期を世話になった寺を出、独り禅の旅に出られたとのことで、もう一休禅師が青年僧となられておられた時の話です。 正月もめでたい日に、事もあろうか竿の上に骸骨のどくろを刺して、京の繁華街をみすぼらしい格好で歩いておられたって言うではないですか。街の商人も舞妓さんも、「あれ、とうとう一休さん狂ってしまわれたか」とばかりに「何故に一休さん、そんなことやってるのです」と尋ねる町の人々。そうしたら、一休禅師がどくろを竿から下ろして、「いつかはこうなる、目でたやのお」と唄われたんです。あんまり奇怪なもんで、街の衆はますます「おかしい」と思ったのですが、確かに死ねば皆平等に骸骨になるよし、しかも眼も腐って無くなるのであるから「めでたい」 居や々、本当に目出度いのではなくて、駄洒落として目出たい。 どうせ死ぬものと解っているならば、なんで皆、本気で生きないか。 もっと、楽しむ。もっと喜ぶ。泣く。叫ぶ。 本音で一生懸命生きればいいじゃないか、なんでこんな時代にみんな力を合わせないのかという一休さんなりの強烈な人間愛のエンターティンメントだったのです。一休さんのその言葉の意味が、やっと町の人達は解ったようでして、それからはしばらくの間、歌えやどんちゃん、さわげやてんてこりんの大賑わいでありました。中には目の見えない娘さんもおられ、喜んで居たたそうです。そういう辻説法をやってくださる和尚様でしたからでしょうか、ほんとうに現代でもたくさんの人から愛されています。 しかし、もうひとつ泣かせるのは一休禅師の情(こころ)の部分です。そのどくろの出来事から二十数年経ったとき、住吉大社で偶然その時の女性にめぐり合いになられたといいます。 運命の深さを感じられた一休禅師はその目の見えない女性と夫婦の契りを交わし、老齢にして人間としての安住の境地、幸せを掴まれました。これこそ、まさに目出度い、目出度い。 一休禅師は最後には皮肉にも自分が嫌った大寺院というものへ勧請され大僧上となられますが、まさに時代の申し子であったのです。時代は乱れに乱れておりました。室町の4台将軍は、親の栄華を拒むかのように、一人、禅の世界へ没頭していったのです。金閣と対比して全くといって質素な銀閣が作られています。筆者の日本史を教わった頃は、財政難で銀閣にしたと、まるごと嘘を覚えさせられましたが、現実は、父君に疎ましがられていた4台将軍が、だからこそ、そんな父にも捉われない、自分だけの境地を掴もうとして建てたと多くの学者が言っています。 しかし金に対して銀を作るとは心のどこかで父君への尊敬と、愛されたいという子供なら誰でも親に願うであろう本心が隠されていたと筆者も、そうに違いないです。もう、すでにその頃というは、日本のルネッサンスといいますか、多くの偉人鬼才、はたまた僧も武士までも、世の中にうまれ出てきた時代です。
【戦国の世はじまる:男たちの求めた理想郷】
安土桃山時代と呼ばれたフロンティア
すでに鎌倉、室町の時代を経て全国地方に鎮座している武家が、最も盛んにぶつかり戦い合った時代です。また、貿易が盛んになり、かかえきれない情報の暴発によって経済的なイデオロギーが衝突した文明の幕開けです。また、鉄砲文明がどんどん日本に浸透し、軍隊の中世近代化が行われた大量虐殺という恐ろしい時代の幕開けでもあります。
信長公が目指した日本
足りないものは他国から補う。海洋貿易立国の構想。信長公は、形骸的な地位や名誉よりも、質実を取って国益を優先する方です。早すぎた天才と申し上げても過言ではありません。室町将軍権力からの自立をはなから考えていながら、あえて1568年足利義昭を立てて京都に入り、そしてこともあろう事か、普通は考えられない、義昭公を将軍職に伸し上げたのです。義昭公あるいは朝廷は、信長公に対して副将軍でも何にでもしてあげるから、という一見成り上がりを目指す武将なら断らないだろう褒れを、あざあざと断ってしまっているのです。好きな国をあげようという彼らの賛辞も飲まずに、その代わりとして、和泉堺と近江大津・草津の三箇所への代官所設置を交通・流通・軍事の要所と捉えて要請したと見えます。上洛の後に信長公は日本各所の関所の撤廃を命令。これは今で言うところの、さながら高速道路の料金所の撤廃です。関所が意味するところの規模からは関税局撤廃とでも取ることができます。 最初から何てあっけらかんと凄まじい改革をやってのけるのでしょうか。とても豪気な人です。 関所は当時、幕府・朝廷・貴族・大寺社などにより設置されていました。 つまりこれだけ多くの関所を通過すると、税金だけでもたいがいな値段になるので、これは物流を阻むものだとして断固として許しませんでした。もし現代でこんなことをやる官僚がいたなら、国民は総出で大喜びするでしょう。
天子様とばかりに奉られるかもわかりません。多くの人々が、信長公を歓迎しました。
しかし、もうこの時点で、特権商人や不動産屋とも取れる大寺院らは金銭的な大打撃を蒙ったのです。 それまでの時代は、橋や道路を壊して敵を防ごうとする保守的な方法であったのに、いきなり信長公は、軍事物資の輸送能力とともに軍の機動力を向上させるという大仕事に出たのです。従来のやりかたに反し、道路整備に重きをおきました。信長公は有事に備え、大きな道路を作りました。また、環境エコロジーにもいち早く目覚めた偉人であり、ストレートな道の両端には松と柳が植えられており、夏は木陰にもなり、台風をしのいだりもするわけです。また、空気の良い時代に更に良くなることは言うまでもありません。琵琶湖にも見事な橋をかけ、今で言う道の駅のような休憩所を設けました。 驚いたことに、今までの話を単に聞いた人であれば、著者であれば、機能重視で安く橋を作ったのだろうと勘違いするのですが、信長公を見くびってはなりますまい。 凄まじいことは史実、わざわざ遠い若狭湾から材木をとりよせてゴージャスな欄干をつけた本格的な瀬田橋を1575年に完成させたのです。 日本海に向け、あるいは京都に向け、主要と成る道路も建設しています。 著者は頭が悪いのでおさらいをします。
信長公は、@税関を撤廃したA環境対応道路を作ったBゴージャスな欄干つきの橋を建てたC街道を巡らせた。 著者はこれが全て中世既存であった権力という権力をぶっ潰すための準備であったと敏感に察しました。 @ によって税関で収益を上げていた僧侶や商人が敵になります。 しかし、彼らは財源だと考えるとどうでしょうか。戦争は理由が無ければ成立しないものです。ただ彼らが信長公に矛先を向けるその理由に、利権の二文字があるために、戦争は必ず勃発し、憲政的に優位に立つ信長公は暴徒と化した彼ら僧侶や商人を合法的に成敗し彼らの生命と財産を奪い取るという、まるで昴と風日のシンボルをなびかせた国が、第二次大戦開戦のころ日の丸の国にやっと仕掛けたような荒業を、もうすでに500年前の戦国の大将がはじめていたのです。 だから恐ろしきかな、信長公は頭脳の達人なのです。 小学校の先生が歴史は学ばねばなりませんと口うるさく生徒さんに言われますが、本当に学ばないといけないことは、年号や年代よりも、史実の内容なのです。 A 環境対応道路を作った。 確かに環境という理由になることでしょう。 しかし、一つ考えてみて欲しいことは、例えばこの本をご覧になられ、かつ日本人である貴方がその場合、戦中戦後まもなくという時期を生きた経験の有る人であれば、松は燃料にもなり、油も取れることは解るはずです。つまり、それを何に使うのかということまで考えないと信長公のトリックは見破ることが出来ません。 B ゴージャスな欄干つきの橋。 民衆の憩いのために作ったのだと信じたいのですが、この橋自体が琵琶湖内の大量輸送に何らかの役割も果たすのでしょう。 C 街道を作った なぜV字直角に比叡山をマークするような作りにしなければならなかったか。 逃げ道を完全に断つためなのでしょうか。中世の大権力であった寺院を解体することは、僧兵などを持つそれらの団体が、機能としては、朝廷の言わば外堀であるという事実を鑑みたほうが最もであるように察します。 信長公もまた、軍人としての存在である前に人間であり、人間であるという大前提の前に、魂において、大きな男性を秘めたお方であったのだと存じ上げます。 時は戦国。今現代以上に貧困は火急をなし、町は混乱し、信長公の御父君はいつも戦争へ出られておられたので会うことも出来なかったでありましょう。父君の愛情も充分に受けられなかった幼少を鑑みては、強烈な母性とも思える父権の存在に憧れ、「いつかこの地上の地獄をこの俺が救って見せるのだ」と心にお誓いになられてあられたのだろうとお察しいたします。
偉大なる信長公。信長公は急ぎすぎになられました。なぜ明智光秀氏が、亀岡の帰り磐で引き返し、信長公をお射ちになられたか。もし信長公が徹底して協議によって和睦せしめる心があられたならば、この国、いや、この世界の歴史は嘆く事無く変わっていたのかもしれないです。しかし、あまりにも既存の時代を憎み、未来を夢見て信長公は独りで日本の重荷を背負いすぎました。それほどまでに、怒り心頭されておられました。本物の男、信長公は日本人に覇業の大王のとして代々語り継がれることでありましょう。
【秀吉公が目指した日本】
太閤さんとして、現代に語り継がれる太陽の子、秀吉公。 現大阪城は復元でありにしも、あの壮大な城の有様を見て何か高ぶる思いを募らせる男の人も多いことかと存じ上げます。実はあの本丸があった場所には、天守閣築城なるまでは、石山本願寺という寺が建っていました。宗教と武家、このどちらかが正しいのかという論争は歴史の結果に委ねるとしても、この大阪城の堀の大きさは半端ではありません。著者は以前関西地方にいて、モーターサイクルで大阪を巡回した経験があり、いかにその城が凄いものであるのかは確認済みです。ですが、いかにして秀吉公が太閤となられ、今や人口900万人とも言われる大阪の基礎をお作りになられたのかということに大変興味があります。 太閤になられたその、工程よりも、その情熱が何であったかということに惹きつけられます。これは、もしや、太閤関白となられてから使われた豊臣という妙字に反応しているのかも知れません。朝廷から太政大臣のポストを得て直ぐに、以前に頂いた藤原姓を一切やめて「豊臣」としています。聖徳太子フリークの私は、聖徳太子と現在呼ばれている謎の多い人物の別名がまさしく豊聡耳皇子(とよとみみのみこ)であって、おそらく崇高な名を求めるがあまり、秀吉公は聖徳太子にあやかったと鑑みます。朝鮮半島出兵の際、多くの人民の耳を切って持ち帰ったことから豊臣とついたと申される人もおられますが、果たしてどうだったのでしょうか。信長公の信望を一身に集めたこの生真面目な大人物が、一体どのような人物であったかについては全く定かではありません。 しかしながら、刀狩りをしたり、亡くなる前に難波の夢も夢のまた夢というような事を言われていることを見れば、この人こそは日本史を飾る戦国の三代武将のなかにおいても、一人だけ、まじめに、「天下」を執ると言う気持ちで挑まれた方にちがいあるまいと勝手に納得してしまうのです。
【1600年天下分け目の戦い。家康皇の目指した日本】
徳川家康。この方ほど理解されないで現代に至る覇者は居なかったでしょう。
日本国徳川幕府第十五代将軍徳川慶喜公
日本国徳川幕府第十四代将軍徳川家茂公
日本国徳川幕府第十三代将軍徳川家定公
日本国徳川幕府第十二代将軍徳川家慶公
日本国徳川幕府第十一代将軍徳川家斉公
日本国徳川幕府第 十代将軍徳川家治公
日本国徳川幕府第 九代将軍徳川家重公
日本国徳川幕府第八代将軍 徳川吉宗公
日本国徳川幕府第 七代将軍徳川家継公
日本国徳川幕府第 六代将軍徳川家宣公
日本国徳川幕府第 五代将軍徳川綱吉公
日本国徳川幕府第 四代将軍徳川家綱公
日本国徳川幕府第 三代将軍徳川家光公
日本国徳川幕府第 二代将軍徳川秀忠公
日本国徳川幕府 初代将軍徳川家康公
徳川家康公は何と15代も続いた徳川幕府の創設者なのです。今は東照神君と呼ばれ、日光東照宮に祭られたその人。しかし、今ひとつ奇妙なことに気が付きました。日光東照宮の祭神は確かに東照神君徳川家康公。日光東照宮は、山王信仰の中心でもあります。だから、祭神の頂点は、実は家康公では無いのです。では、何かと言われるときに、はじめて最初のあたりでお話いたした男の方が登場します。その方は、秦河勝公です。そう、あのダビデ王の子孫にして秦の始皇帝の子孫の方です。 歴史は藤原氏が実権を掌握するために、大きく歪められ、現在に至ります。神々(実際の人々)の名前も多く新しく名付けることによって、撹乱を起こし藤原氏は自らの保身を継続して来たに他なりません。 聖徳太子様から、各人物を点と線で結んでゆきますと、とんでもない事実にたどり着きますが、それは、個人の楽しみとして、日本に住む予定の諸国の方々は参考にしてみてください。 諸外国の皆様と日本人の繋がりが解るはずです。それは、日本人にとって先祖を辿る時空の旅となることでしょう。 また、中東の諸国が困っているとき、日本国民は何を助言するべきか、これからどのように付き合い、まさにエネルギー問題を共有し、御互いの資源を出し合い、平和裏に祈りの境地でお付き合いすることが大切だと言うことに気が付くはずです。生きるということは、これは本当に大切なことで、どんな御託より真剣で切実な問題です。
では、生きるためには何でしょうか。お金なのか、安全でしょうか、あれもこれも言ってますと限がなくなってきます。しかし、もっと原点を見つめていかないと、複雑なパラドックスによって大切な自分の見解に目隠しをされてしまいます。人間の原点って、何でしょうか。環境と自然って、一体どうすれば治るのでしょうか。綺麗な空気は一体どこへ行けば手にはいるのでしょう。安全に食べれる食品はどこへ行けば手に入るのでしょうか。身体に害の無いおいしい水は、どこに行けば手に入れることができますでしょうか。 お金、が、あれば、なんとでもなる(?)では、持ってない人はどうなるのだろうか。このままで、いいのでしょうか。そろそろ、日本はニギハヤヒが教えてくれた真実に気が付かなければいけない時期なのではありませんか。
「大自然と共に生き、人は共生しよう。」『神道』「和を以って貴しとなす」『仏教』
誰かのせいにしても始まらないです。世界は最悪の方向に向かって急加速しているのです。 現在、環境保全の仕事をしている事から、現時点で日本には、世界の環境を守り共存するだけの技術がそなわっていることに気が付きます。宗教、政治、ボランティア団体、それらはいかに美しく宣伝することが出来ても、本当に心で手を合わせ、足並みを揃えないと、生命のギアが入りません。 日本の先祖は古代文献を通じてこのように囁いてきます。 「はじめに国に国境はなく、人々は自分に合った土地に住んでいた。また望むところに移って勝手に暮らし、子孫を増やしていった。住んでいる土地が貧しくなれば、他の食事に裕福な土地に争いを挑み攻防し、人は集まり村を作り、狩をしては駆け巡り、日々の暮らしは他者との進駐を追って暮らす攻防です。これが護国と国造りのというものなのです。」
この忌みを考えれば、いかに自分たちが希求する穏やかな世界と現実がかけ離れているかが、一読瞭然として理解できます。エネルギー問題を先に解決しないと、武力を持った人はいつまでもあてなく戦争を繰り返します。ですが、その守るべき資源財産を持つ人々が、まさに精神的に、あるいは他の資源エネルギー捻出を可能としたならば、戦争と言うことに歯止めが利くとは思いませんか。日夜どこと言わずテレビや映画では拳銃や爆弾の映像の繰り返しで、簡単に人が死ぬのを面白おかしく放送しています。しかしそれが、間違いなのだということに気が付かなければ、大変な事になります。それは、誰もが早く悲惨な光景に近づいているのです。現に今それは始まっています。 間違いを起こさないための戦争映画というものには少しは賛同できますが、戦争行為には一人の人間として、残念であり、絶句しか残らないです。
なぜそこまで、人は対立しなければならないのでしょうか。世界のミサイル事情 SS−18通称サタンが1974年に登場しました。これは、移動をしない世界最大級の破壊力を持つ核弾頭ミサイルです。SS−25通称トーポリが、1985年に登場しました。これは広島型原爆の40発分に相当します。トラックで移動及び発射が可能です。射程距離は1万キロと広く、モスクワから7000km離れたカムチャッカ半島まではわずか25分で到達するとともに、着弾位置は正確です。SS−24通称陸の潜水艦が、1987年に登場しました。 これは広島型原爆の400発分に相当します。列車に詰まれて移動します。ロシア19箇所にミサイルは配備されています。アメリカワシントンも照準されています。最近ではSS−27トーポリMがあります。ロシアのボトキン社がこれを製造していますが、現在はロシア国防省の予算不足及び滞納によって、創業を停止している状態が続いています。ロシアの経済力は世界で15位だとプーチン大統領閣下は言われます。1991年ゴルバチョフ時代、米露間に核弾頭削減条約が結ばれました。ロシア11000に対してアメリカ13000これに1993年には多弾頭はやめようという協定が結ばれます。モスクワ条約にてロシア5500に対してアメリカ8000。 10年後までに今までの3分の一にしようと言う約束ですが、核弾頭は備蓄するというアメリカの強行及び、4600発というその数は、いまだ脅威です。アメリカが、ロシアとの条約を無視した状態です。 ロシアのミサイル、軍事力 80億ドルに対してアメリカ3100億ドルスロバチハ廃棄工場では1基分解するのに1ヶ月かかります。 アメリカの上院議員ルーガーは、この爆弾廃棄にかかるロシアへの援助を、日本に要求しています。日本の政治家は断ることが出来ません。プーチン大統領閣下は、ロシアの貧困下経済状態を鑑み、核弾頭をはずして、民間の人工衛星を打ち上げるロケットとしてミサイルをリサイクルしています。しかし、依然として3000発もの核弾頭をロシアは持っています。筆者はアメリカの車が好きです。また、ロシアに関しては女性が大変美しいと感じます。どちらもそれぞれ素晴らしい国です。しかし、たった一発で、この日本国を破壊してしまうような爆弾をいまだに双方が何千発も持ち合わせている事態に、狂気を感じます。どうか、双方の国民の皆様、軍事社会の恐ろしさに早く目覚めてください。 また、プーチン大統領閣下が始めるように、ミサイルの平和的利用に重点を置いてください。我が愛する国家、アメリカ合衆国大統領閣下ジョージブッシュ。敵は他にいるのではないです。
国家の名の下に、人間を一人たりとも殺してはいけません。あなたが偉大である事を、不戦の誓いによってお示し下さい。宜しくお願いいたします。 また、全ての武器は、例えば日本の企業の技術力をもってすれば、全く違う平和な商品に生まれ変わることも可能であり、人を殺すと言うことより、緑を増やし、大気を戻し、水を綺麗にして、おだやかに暮らす基礎(ビジョン)を今、日本人が打ち立てなければ、一体誰がそれをなすというのでしょうか。 現実、この世に祈りがなければ、この世界はすぐにでも第三次世界大戦に突入していておかしくないのです。その祈りは自らの神を絶対とし、他の神を阻害するものであってはならないのではないでしょうか。宗教を越え、信条を越えた、たった一つの信条、平和というイデオロギー、それを具現化するエネルギーが今すぐに必要です。
現在は戦争を知らない世代の危険な時代です。
筆者は、太平洋戦争の経験者の日本の先人より、日本国がなぜ戦争を行う必要に迫られたかの少しを聞いて育ちました。だからこそ、誤解の無い形で、日本の説明をさせていただきます。
【最後に、日清・日露・第一次世界大戦・支那事変・太平洋戦争戦没者供養のために回向します、こいねがう所は、日本民族先祖代々諸々霊に拝し奉り、菩提円満ならんことを祈り奉りこの本の最終章「この文献のまとめ=話すべき事」とします。】
坂本竜馬士、勝海舟士、山岡鉄舟士、乃木将軍、とりわけ近代日本の最右翼と呼ばれる大人物たちが提唱したのは、有事に対する軍事防衛力を持つという構想でした。 まさかこれが、後に世に湾曲されて最悪の戦争状態に突入するとは、時の有識人は理解もされなかったのです。まず、明治初頭の大日本帝国の決起は全国のお寺を廃寺に追い込み、平和思想とその言動を廃絶させるというものでした。 あろうことか、日本神道の神官が、自ら誤った日本史を作り出して、国家神道を推し進めました。国家神道は日本陸軍と強靭に結びついて、恐怖政治をしき、大切な日本の未来を背負ったはずの青少年を殺人兵器にしたて、命をけちらしてきました。政府が仕組んだ2.26事件は、今はクーデターと見なされていますが、実際は皇国日本の指導者を財官から天皇に戻すための運動であったのです。つまり時の青年将校らは、国民の生活を考えもしない政府のありかたに激しい怒りを感じていたのです。義勇の軍は、天皇の勅令によって全員処刑されました。 昭和天皇は、このことについて以降話されることはございませんでしたが、終戦玉音放送にて、「堪え難きを耐え、忍び難きを偲ぶ」と言われる通り、そこには深い情念が含まれており、ご自身もまた政財界の利権によって王位、生き方さえ侵害された被害者であることが感じられます。現実、時の政財界を黒幕とした大日本帝国陸軍は、あろうことか皇族を目には見えぬ威嚇、脅しの牢屋に入れ続けたことになります。大日本帝国海軍は、そのような陸軍の横暴を許さずしてきましたが、日本史実を知らない国民は帝国史、選民意識に翻弄され続け、遂には広島長崎にマンハッタン計画の実験地としてアトミックボンバーを落とされるという非常に悲しい結末に至るのです。 大日本帝国海軍は、ミッドウェイ会戦にて、もはや日本がこれ以上の戦闘に耐えることが出来ないことを最前線にて身をもって経験してきていたのです。にもかかわらず、日本政財界は、彼らこそが商いで戦争を「タイアップ」した張本人であったため、「もっと多くのデータを獲得するまで」戦争をやめなかったのです。
玉音放送の意味が解かりましたでしょうか。天皇批判を続けている賊国民であった人々、今この話で目が覚めたならば、政財界の、特に貪りの激しい連中が、国を滅ぼし、あなたの大切な家族を死に今も追いやろうとしている現実を直視するべきです。また、右翼や左翼を馬鹿にする人は、彼ら「心ある国民」が端々の考えで国を守ろうとしているのか、しっかり心に思わなければ、政財界の悪人によって有事法制をしかれ、遂にはあなたの命まで蹴散らされます。
これが、断言できます。
だからこそ、ある人は、日本の軍隊を「警察省」の名の元に興すべきであると言うのです。 自衛隊も、今しがた国民に認められない背景には、政財界の堕落に対する懸念があるということです。
いちばん悲しいことは罪の無い子供たちを不幸にすることです。それでも戦争時子供達は信じていました。富士重工のゼロ戦は、世界一であると。戦艦武蔵大和は、無敵だと思ったでしょう。何故なら、あの中には全国のお寺の吊鐘が使われたのですから、絶対勝てると思ったことでしょう。
しかし、べらぼうめ、喜んだのは三井、三菱、住友、安田等、財閥だけだったじゃないですか。あとは、それに諂う後に戦犯と呼ばれた鬼たちです。 有事法制を認めるということは、今度は例外なく全員が「戦犯」とされ処刑されるでしょう。
東北人北海道人が蝦夷でしょうか(?)鬼でしょうか(?)鬼というのは、私欲のためなら人をも殺すという、人間が一番持ってはならない心のことですね。身近なところで岩手県知事増田寛也さん、あなたは保身のためなら岩手県を関東のゴミ箱にするのですか。そのゴミからはダイオキシンが出ていますよ。岩手は農業地域ですからね、皆がんで遣られるのが、何故理解できませんか。筆者の祖母も胃がんで死にました。肺がんも併発したんですよ。あなたがた財界や官僚にはこの苦しみが分からないでしょうね。それから、無駄なダム建設に860億円、あなたは本当に建築屋から人気を得ることしか考えていない。そんな金があったら、430万台の自動車の排気ガスを私が楽煙で消すことができたのに。430万台といえば、県内の自動車登録数を超えてるんじゃないですか。筆者が何で、この環境保全に命をかけているのか。
東京都庁知事本部にも直訴に行きました。岩手県知事知事秘書室にも行きました。北上市の秘書室にも行きました。しかし、一向官僚は働きませんね、理解に苦しみます。筆者は言いました、私達日本環境保全組合は、世界中の大氣を浄化し、世界中のエネルギー事情を改善する「楽園」の製造卸元であるから、要請があればすぐにでも日本中の大氣を浄化できるのだという事実を。北海道から長崎まで、命がけで駆け巡ってきましたよ。一ヶ月、10万円そこらで必死で生きている私達若者の気持ちを、税金に寄生しているだけで働かない役人には分かるはずもないですね。今は北海道に行ってしまった、私たち夫婦が弟のように愛していた青年も居ました。官僚、役人は、彼ら若者に何かしてやれましたでしょうか。?私達夫婦は、二か月分に相当する私達の御金を無償であげました。 「鬼」は、馬鹿な童だと笑うでしょうが。私達夫婦は、しばらくまともな食事も出来なかったです。しばらく食料を買う金も奉仕したために無かったです。しかし、困ったと言って次から次とお寺でもない私の環境保全事務所に人が尋ねてくるから、私は連絡の付く県庁知事室に連絡して対応をお願いした。その場限りの感謝をされるが、私も先祖といっしょでこれでは馬鹿「馬=太子・鹿=入鹿」みたいですね。馬鹿つまりは、功績に対して栄誉が得られないことです。
だから、神仏と向き合おうと覚悟しました。 同時に、助けるべき人は選ぶべきだと感じました。 私にも当然力の限界があります。「徳」を積むには自身を修行し「徳」ある人を見極めねばなりません。 人間は皆一緒だという平等とは考え違いなことを言う人が世の中には居ますが、悪のDNAを存続させるということは、それを助けた人間も悪なのです。ですから、企業を運営する人は特に、その人の素性を知る必要があります。
朝鮮人差別、部落差別が未だにありますが、日本国を愛し日本社会に貢献する人間は皆日本国民なのであり、差別するということは、国家憲法に違反する犯罪なのです。日本に来て日本国家に順応しない外国人は、ナンセンスそのもので国へ帰りたまえとしか言い用がありませんが、日本を愛する人は、たとえ白人であれ、黒人であれ、朝鮮人であれ、何人であれ、皆日本人なのです。仲間なのです。それをよく思います。 また部落差別は、朝鮮武寧王の子孫である現天皇の先祖に反逆した末裔であり、だからと言って「憲法」のある今の世に、差別を持ち越していいはずがありません。そのようなことを続けることが国家から優秀な人材を削ぎ、国家を没落させる起因となるのです。
ここで、ひとまずコマーシャルです。 何事もすぎたことはおいておいて「今後の付き合いの参考」としますが今だから言っておきますよ。企画出版の名の下に230万円、まさにぼったくられて作った千田寛仁著「JAPANESE
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JUSTICE」の本題の意味は、「日本人の正義」ではないですよ、履き違えないでくださいね、「日本の法制」という意味です。今一番考えなければならないのは、この国の法憲であり、それを司る国民の心ではないでしょうか。 北上市長伊藤彰さん、何度も言うが、北上市は鬼の住む町ではないですよ。鬼が住んでいるなら、それは税金に喰らいつくあなたがた役人でしょう。桜ホールという360億円かけて市内に作っている、他目的ホール(誤字ではございません。)360億円あったら、楽煙によって180万台の自動車から排気ガスが無くなるのです。伊藤市長のやっていることは、国庫から半分も引っ張って、全国の国民に迷惑をかけて、人間のやる姿とは到底いえません。
どんだけの青少年がこの地を離れていきますか。ここで育ったものは皆離れて行くではないですかそれがあなたの力量を表しているのですよ。回収の目途も立たない企業に、血税を使ってはなりません。そういう人間をのさばらせておくと自治が成り立たなくなり市民の生活は過貧となります。
あなたがた、役人はもっと使命を感じて働いたらどうなんですか。官僚であれ役人であれ、これからは国民がリストラしますよ。そして、国の管理下における犯罪や事件は、これからは法制もかわり、代議士や役人にそのままのしかかります。つまり、これが本当の民主主義なのです。公に対して本気で必死に働かざる官僚や役人は、財産もなにもかも失うこととなります。もっと危機感を持って、理想は高く仕事に意義を感じていただきたい・・・・・・・ また、日本に住む人は、メディアや情勢に惑わされて居たらいけません。先祖代々の教えに耳を傾ける時間を持ってなければ絶対失敗すると思いませんか。
日本という国は四方を海に囲まれた島国でしょう。当然ながら、この海域では、国民のお腹をみたすために漁業を行ってるんですね。それを汚された時、まず、国際法廷に告訴するべきでしょう。そうしなければ、今のまま国民は毒の入った魚や海草を食べつづけると言う大変な結果になるでしょ。しかし現在の官僚は天照大神ニギハヤヒの教えも知らず、私分の欲を満たすことばかりに気を払ってるね。年金が幾らとかばっかりでしょ。いつも考えてる事は。国民の命を守るという事にたいしては、何も考えていないように感じるのは筆者だけでしょうか。これは凄い危険な事態なんですよ、国の一大事なのに、多くの国民は目を瞑り、というか知らないでいます。耳を閉ざし、というか、聞いていません。毒を毒とも思わずに、日々続々とがん患者が増えて行ってるのがなぜ分からないのでしょうか。国内の諸問題は重大であり、代議士は力を合わし発言権を得ることも知らずマスコミに踊らされ、いや、自分で勝手に有頂天になっておいでなのか。国家は離散と腐敗の一途を辿っています。もう、危ないですよ。
筆者の言うことで、何か物事が急展開するとは思われません。
ですが、少し曲がった日本の軸を、わずかでも軌道修正することが必要だと思い、日本国や、これを読む全世界の友に話そうと決めました。筆者はたとえこれを読む人の中に軍事メーカーがあろうとも一向構いません。それはむしろ、軍事とは、この先にあって地球に思わしくない衛星の軌道を修正するためにいくらでも必要視されるからであり、それ故軍事産業もまた、新しい平和産業として生まれ変わることが可能であるからです。 それには、パレスチナとユダヤの平和が不可欠であると考えられるし、日本は中東とアメリカに真の人情を示さなければ、中途半端な干渉をこのまま続けると最終には日本人は両者の呪いによって制裁を降されます。それが2013年頃です。
真実今それは始まっています。国民の意識が向上しない限り、このまま日本は確実にスラム化へ向かいます。また、実質の無い特殊法人を設けることによって、一般の国民は窮地に貧しているのが現代といえます。 自分達が選んだ代議士に裏切られ、自分達自らもこの国を信じられなくなっている事態なのです。 しかし、まず、日本国民の存続のためにはその状態が間違っていると気が付かなければなりません。 国を愛せず、国土の腐敗をこのまま放っておいたならば、この「島国」と「住む人」は確実に行き場がなくなります。 今現実、この国をアパートに例えるなら、個人は900万円程の負債を抱えて家賃滞納が続いている。残念なことに借金は返せない状態にあるのです。 だからこそ、独立しなければなりません。誰もがそれぞれの理由によって、独立するべきだと提唱いたします。法人格をこのまま作り続け、それが潰れたあとの尻拭いを国民が続けている現実。戦争の罪滅ぼしといって、ふんだんに取り上げられてゆくODAの莫大な費用。国際協力の名の下に、国民の生活が侵されていく現実。自分達国民が費用を出して作った高速道路を自由に使えないでいる日常。その状態を起こしている人も、被害にあっている一般の国民も、早いとこ気が付かないと大変です。一般個人でシュミレーションしてみましょう。今、個人で借金が900万円あるとし、三人家族で2700万円だとするならば、まず最初にやるべきことは、家族が一致団結して節約に努めることです。支出をなるべく押さえます。ガソリン代の支出を抑える。ガソリンは米国の4倍の値段です。公共事業に使われていると政府が唱えたとしても、癒着と談合によって受注を受けたいい加減な工事業者が、わざともろく作った道路がなぜこれ以上必要でしょうか。衣服、靴などへの支出を抑える。必要と不必要を再確認して、不要なものを極力買わないように勤めます。先日買い求めた衣服もすぐに使わなくなることは多いです。
銀行に合わせ、現金がいくらあるかを確認します。また、その中で家族みんなで借金の返済計画をたてます。飲料食料は、よくよく注意して、然れども、栄養を考えて贅沢になりすぎないように勤めます。週に一度はふんぱつするなど、工夫が必要です。食事を司る人は一家の一日を左右するのですから、真剣に是に当たらねばなりません。また、家族も出来る限り協力するのです。仕事は、自営業が最適です。ブローカーのような仕事ではなく、自ら立ち上げ、人から物を借りずに、時間をかけて構築します。 また、事務的な自営業であるならば、乗り物を使って大気などの環境を汚さなくて済みます。 島でさえ、大陸でさえ、地球のプレートの動きと温暖化の相乗効果で沈んだり無くなったりということが、今後は特によく診られるようになります。また、経費の全てを計算して、最も有効な手法を出さなくてはいけません。 法人格にすれば、国=一般の国民に迷惑がかかることが多多あります。なぜ法人格にしなければならないかということには、信用というものが法人格にすることによって得られると勘違いしている人が多いことと、また、会社の経費で私分のものまで落とせるという腐れ根性を持つからです。 しかし、信用とは実際どういうものでしょうか。私の良く知る経営者は、わずか25歳で独立し、今や年商5億円の企業と肩を並べています。信用にかけては、それ以上かも知れません。アメリカや中国、世界中のパートナーとともに、世界の環境を守る仕事についています。 彼の名前はインターネットで100件以上あがってきますし、彼の事業もまた然りです。その行動の範囲は官公庁、一般企業、法人団体、そして個人まで幅広く活動し、人を上下するのではなく、結果多くの人に支持されています。私と気性の良く似た彼に言わせると、「信用というものは、その人の生き方であって、金銭を支払って得られるものではない」また、こういいます。「政府が一つあって、経営者はそれぞれ国に必要な仕事をし、和合して共存するべきだ」と。 筆者が最も感銘を受けたのは、「企業は大きくなればなるほど怠慢になり、顧客を疎かにする。組織の機能が潤滑でないものは、もはや規模を縮小し、万事にあたるべきである。」という言葉でした。
今は手が離せず忙しいということで連絡が取れずにいますが、手が空いたならまたじっくり事業の相談をしたいと思います。社員を召抱えることもせず、事業者として人を育て、かつ見返りを気にしないところに、サムライのような気質を感じます。これ以上親友を褒めちぎっても仕方ないので言いますが、結局日本国というのが、組織的に大きな家族というわけであるから、あたりを見周して、また自分も家族を持った上で何が必要で何が不要かを考えること。人が不要というのはあり得ないのだから、適材適所にみなが協力してあたらなければ、家族は維持できないということです。 また、借りた金は必ず返さなくてはなりません。一般家庭であれば、親族が迷惑を蒙ります。国家では市民や県民、国民に幅広く迷惑をかけます。それが法人格の多い日本の現実でもあります。GHQがかつて戦後まもない日本で実験したように、組合でよいのです。 ゼネラルストライキが失敗したのは、結局国の「一部」が「大多数全員」の日常を壊す恐れが現実に行われたわけにあり、国民全体が「家族」の思いをもってその仕組みの運営に一人一人が心から携わったならば、ストライキなど起こさなくとも、問題は起こらないのです。 隣人を愛せよと言うこと、これはイエス様も、聖徳太子様も教えていることです。まず、お金を返す。貸した金が多いなら、返還を求めないといけません。そんなことでは、真の友好関係など保てません。金が戻ってこないなら、金を貸した事実を、相手や身内の皆に忘れさせないようにすることですまた人は、大切にしてくれた人の子供を大事にできなければ、人間失格です。政府の役人や銀行、会社の経理を任されている人の中には、金はあぶくのように沸いてくると勘違いした人が多いです。現状を見れば解ります。家庭においても、あるいはお父さんが一生懸命稼いで来たお金が「汗と涙の結晶」であることを忘れておられませんでしょうか。仕事が無い、仕事が無いといい愚痴を垂れる人々、仕事は自分で作るのです。もっと心は真剣に、視野は楽観的にしてゆけば、道は開かれるのですよ。大丈夫、自営がはじめてだという方には、失敗しないポイント。「儲けたい」という気持ちから手を引くこと。実質を獲りましょう。貿易はLCなどを組むより、現金取引で行うことがベストです。つまりそうなると、互いの信用が大事だということです。それから、仏壇や神棚を粗末にするような家庭は崩壊しています。
仏壇や神棚の無い人は、親が残した遺影や持ち物でもいいのです。本当に古く、由緒のあるものを放ったらかしにしているから、家庭が乱れるのです。家庭においてそれが何なのか。国においてそれが何なのか。しっかり観じてゆかないと、鍍金の仏壇や神棚にお金をかけているようでは家庭の建て直しなど到底出来ません。 政府は本当に日本の改革をするつもりがあるのなら、平等寺に永久寺、妙楽寺に興福寺を復興するように。神社においては、大和神社をあんな粗末にしているようじゃ、ままなりません。 そこに「責任」があるのです。 壊したものは修復する。借りた金は返す。その努力もせずに諦めましょうと抜かしている人は、一生、親戚世間から相手にされません。その遺恨は子々孫々まで続くんです。だから、「責任」が必要と口うるさく言います。貸したお金を回収し、借りたお金を返済したならば、もっともっと家族は幸せになれるのですよ。最後に、地球に有るすべての物質は輪廻しています。造ったものが簡単に壊せないのなら、無理やり壊さなくともよいのです。まさに日本で言えば徳川時代の終わりまで日本国はじまりの祈りの中心であった三輪山平等寺からはじめ、全国の神宮寺をわざわざ破壊しなくとも、その伽藍は再利用できたわけであり、仏像であっても、日本での創生理由を知ったなら、神仏はひとつであることに気が付き、それを保存して、しかるべき時代に伝えることも出来たわけです。 残念ながら、八紘一宇の大儀のために太平洋を開かんと欲したという大日本帝国の命令によって今は当時の伽藍を跡形も残していない日本中の寺院の諸仏諸神、今しばらくこの国に居て、日本国の一人一人の心の祈りを通じて、世界の国々が目先の欲にまどわされず、世界全体の幸せに生きる世界そのものが組織となれる日を願っています。
★世界で誰に手術が必要であれ、平等に最高の施術がなされるように。 ★世界人類が、今日もお腹をへらさずに暮らせますように。 ★世界人類の家族がなごやかに楽しく長く生きることができますように。
夢のような幻のような地球のこのスローガンを達成することが可能なのは日本国の技術です。そして、今まさに日本に興味を持ってくださった、貴方や貴女なのです。
WELCOME TO JAPAN. 日本へようこそ。
日本国 国民男性 千田寛仁
謹書
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本著の書評「プロの目」
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